第三話







遠く 遠く

ひたすら前を見ていても

鏡のような空からは

逃れられない








出立は寂しいものだった。我々はまだ夜も明け切らない早朝にヤマトを出発した。
まだ秋も中頃だったが、空気が冷たく、吐く息は白かった。まだ活動を始めていない村も森も、死んでいるように閑散としていたが、私はそれに安堵した。何事もなく進みたい。

ヒメは時折体を震わせていたが、私が声をかけると、やわらかく笑んで「大丈夫」と言った。
サルメとサダルは四人で行動することにまだ慣れていないようで、サルメはいつにもましてやけに喋り捲っていたし、サダルに関しては初めて出会った頃のように無言で一人前を見ていることが多くなっていた。
それでも彼女の笑みがその場の空気を明るくさせ、暖かくさせていたのは確かだ。彼女に限らず、女性とは、えてしてそういうものなのかもしれない。そう感じるのは私だけだろうか。


まずは伊勢に立ち寄った。そこでヤマトヒメにもらった草薙の剣と、ひとつの小さな袋を携えて、われわれは更に先の相模の国へと向かった。








「久しぶりに布団で寝れる!」

「サルメ、はしゃぐな。ほこりが飛ぶ」

「だって本当に久しぶりじゃないですか。ほら、遊びましょう」


そう言ってサルメは私に枕を投げてきた。私としてはゆっくりしたかったので黙らせようと仕返しに思い切り枕を投げ返したら、窓のそばの椅子に腰掛けていたヒメがくすくすと笑った。

相模の国に着くまでは野宿も多かった。旅など初めてで、まして女の身であるヒメにはつらかっただろう。それでも彼女は気丈に振舞って文句一つ言わなかった。今一番はしゃぎたいのはヒメかもしれない。


「あぁ〜もう今すぐ寝たい気分だ。でも夕食がある!米が食べられるのか!やはり寝るのは我慢しよう」

「サルメ……お前本当にうるさいな」

「オウスったら。そう言わないで。私も夕食が楽しみです」


あからさまに呆れのため息を吐いた私をヒメが嗜めた。
私も彼女に微笑み返した。

サルメが布団に突っ伏し、感動に浸っているため、ふと静かになった部屋で思いついたようにヒメが言った。


「サダルはどこかしら?」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに唐突に戸が開いた。
私は心臓が跳ねたのを感じた。

サダルだ。


「失礼いたします。オウス、村の者に聞いたのですが……ってサルメ。部屋にいないと思ったら、お前何をしている」


既に布団に横になって今にも眠りにつきそうなサルメにサダルが軽蔑の視線を投げかける。
サダルの言うことは最もで、この部屋は私とオトタチバナヒメの部屋なのだ。ちなみにサルメが独占している布団は私の布団である。

サダルの存在に気がつき、サルメが飛び起きた。


「いや、お前こそなぜここにいない」

「当たり前だろう」

「はぁー。別にいいじゃないか。そりゃぁ私だって寝るときには部屋に戻るし……おっと」


サルメが失言とばかりに口元を押さえた。明らかに私とヒメを意識したその動作が嫌味っぽくて私は彼の尻を蹴っ飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、横を見ればヒメはいつものように微笑んでいた。
サダルは先ほどの私と同じようにため息を吐いた。そしてサルメの相手をするのを諦めたのか、私のそばまで来た。
彼の姿を間近で見るのが久しぶりな気がした。否、そんなことは決してないのだが、彼から私のほうに歩み寄ってくることは本当に久しかった。


「村の者の話によると、この村の裏手にある大きな沼に神がすんでいるとか」

「神?」

「その神は恐ろしく乱暴で、村を困らせているそうです」

「乱暴な、神」

「えぇ、相模の国にそのような神がいるとは聞いていませんでしたが、大王は東国の悪全てを討伐せよとおっしゃられた。ここも例外ではないかと」

「なるほど……」


久々の休息と思えばこれか。だが仕方ない。この村を見捨てるわけにも行かないし、東国を全てヤマトに従えること、それが私に与えられた使命なのだ。荒れすさぶ神もまた然り。私はそのためにヒメを巻き込んでまで遠征に来ている。私は重々しく頷いた。


「だが、明日にしよう。今日は休みたい」

「わかりました」


戸口でふと振り返り、サダルはサルメに来い、と手招きした。サルメはそれに従った。部屋を出るときの彼はどこか満足げだった。


「サルメは、元気ですね」

「あぁ、いつもあんな調子だったよ」

「そうなんですか。それでは旅も楽しかったでしょう」


私は答える代わりに微笑んで彼女の質問をごまかした。


……違う。前の旅よりも、サルメは体力が有り余っているかのように元気だ。
ヤマトでの彼の態度とはまた大違いだ。あのときの彼は至極真面目で、苦しそうで、私に意見をした。あのときの彼と同一人物とは思えないほど、今の彼は活き活きとしていた。

そう、全くそれとは反対に、サダルは静かになった。その代わりに、夜の見張りや、旅先での情報収集を彼は率先してやっていた。それはまるで何かに追い立てられているかのようだった。
寝ずの見張りが三晩続くこともあった。さすがにそれでは体が持たない、と私が代わろうとしたが彼は譲らなかった。結局あの時はサルメが一緒に起きていたようだ。闇の中で、二人は一体何を話していたのか。いや、そんなこと今更気にする必要もない。彼らは私と出会う前からずっと二人きりだったのだ。

結局、サルメの思惑通りになったかもしれない。
私はサダルと関わる機会が格段に減り、私の中でくすぶっている何かを彼に伝えることもなかった。あの時、サルメはサダルが私に惹かれ始めている、と言っていたが、それも一時の気の迷いや、幻であったのではないかと思われた。サダルは私に近づかないばかりか、ヒメの存在も気にしていないように常にその顔に無表情を貼り付けていた。


日々が淡々と過ぎていく。計画的に、支障なく過ぎていく。





その夜、私はヒメと二人きりだった。
月明かりに濡れる木の机に杯を置き、ヒメが酌をした。透明な液体に、千切れた月が不安定に揺れていた。


「ヒメ、旅はどうだ」

「楽しいです。もちろん疲れはありますが、私はこうして貴方と一緒にいられれば何の苦も感じません」

「そうか……」

「オウスは?」

「そうだな、前の旅路は男三人でむさ苦しかったからな。貴方の存在が救いだよ」

「まぁ。私も決して足手まといにはならないようにするわ」

「何があっても、私が貴方を守るよ」

「オウス……ありがとう」


そして、申し合わせたように私は彼女に口付けて、その夜彼女を抱いた。